学校では教えてくれない「親日国 パラオ」のお話

■「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」


Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

パラオペリリュー島にあるペリリュー神社前の掲示板に刻まれた
イサオ・シゲオ尊長(そんちょう)の言葉


■「諸国から訪れる旅人たちよ 
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
 玉砕したかをつたえられよ。」

ペリリュ-島にある慰霊碑に刻まれた
日本軍と戦った米大平洋艦隊司令長官 C.ニミッツの言葉



■パラオの国旗

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パラオが1994年に独立する際、70余りの候補の中から選ばれた国旗。
真ん中の黄色い円は「月」を表し、周囲の青は太平洋を示します。
日章旗の赤い円「太陽」と「月」は友好を表すそうです。
「月」が、真ん中から少しずれていますが
これは、日章旗の「太陽」と同じく真ん中に持ってきては、
“日本に失礼だから”と敢えてずらしてあるそうです。



パラオと日本の間に、何があったのでしょうか?

以下 参照元
http://www.youtube.com/watch?v=3Yv471RNBfo&feature=player_embedded
http://nezu621.blog7.fc2.com/
http://ameblo.jp/create21/entry-10307682729.html



パラオ

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パラオのペリリュー島という小さな島で
12000人の日本守備隊は大東亜戦争において、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍のアメリカ軍に対し、
持久戦に持ち込み、全く補給なしに73日間守りとおして死闘の末に玉砕しました。



パラオはスペインやドイツの占領を経て、第1次世界大戦後、日本の委任統治領となります。

当時の人口は6千人。

西欧の支配下で、元の人口の10分の1に減っていました。

西欧諸国が世界各地で植民地化政策を展開していた当時、
パラオは日本の防衛にとって重要な拠点でした。

パラオにて、日本人は
稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ち込み、
缶詰やビールなどの工場を建設。

道路を整備し、橋を架け、電話を引き、学校、病院を建てるなどのインフラ整備を行いました。

また、住民すべてに数種類の疫病に対する予防接種も受けさせるなど衛生面も充実させ、公教育を子供達に受けさせました。



日本は、1941年にはパラオ南部のペリリュー島に、1200M滑走路2本の、飛行場を完成させています。

パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。

ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶになった。

そこで、太平洋艦隊司令官チェスター・ニミッツ提督の指揮下、
このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画します。


≪ペリリュー島の戦い≫

日米両国の戦力は以下の通り。



【日本】

総員 約10,500名

小銃 5,066挺

軽機関銃 200挺

重機関銃 58挺

戦車 16両

砲門 約200



【アメリカ】

総員 48,740名

小銃・自動小銃 41,346挺

機関銃 1,434挺

ピストル 3,399挺

迫撃砲 729門

戦車 117両

バズーカ砲 180基



人数で5倍の差。

装備の差は、制空権・制海権を完全に掌握していたアメリカ軍と日本軍の差は歴然で
航空機や軍艦からの艦砲射撃を考えると、数百倍の差があったとされています。



日本軍にしてみれば、「玉砕必至」


この当時、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいました。
しかしこのペリリュー島の戦いで死んだパラオの村人はいないのです。
それはなぜでしょうか?

ここで
パラオにて伝わる日本兵とパラオの村人のお話を紹介します。

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遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。  

「あそこでみんな死んでいったんだ……」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
大東亜戦争時、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。  

やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。

村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。

先頭には『笑顔で手を振るあの隊長が』。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、『自分達を救うためのもの』だったのだと……。  


日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。

涙が出た。

岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。

誰もが泣いた。

ちぎれるほどに手を振った。
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1944年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られた。


【ペリリュー島の戦い】

日本軍

 戦死者 10,695名
 捕虜    202名


米 軍 

 戦死者 2,336名
 戦傷者 8,450名


村 人 

 死者     0名
 負傷者   0名



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現パラオ大統領、トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア氏の言葉

「日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から
見事に立ち上がり、それどころか、
産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。

そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。

終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み、南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。

それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。

そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです」

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現在、パラオの国定教科書には462ページのうち36ページ
「日の丸の旗のもとに」と題されて日本統治時代の事にさかれているそうです。

日本がパラオを支配するようになった経緯だけでなく、
日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられています。

そして、クニオ・ナカムラ前大統領は、
「新しい歴史教科書をつくる会」に賛同する署名もしていて
大統領専用の便箋に記された署名文書には、心に迫るコメントが添えられています。

『日本国民と日本人がどの民族も例外なく持っている自国の正史を回復すべく努力している活動を支持する。
この活動が実を結ぶことは、日本の未来の世代をして、偉大なる自国の歴史、伝統、文化に目を見開かせることに積極的な貢献をなすだろう』




加えてもうひとつご紹介
http://friendly756.blog111.fc2.com/blog-entry-83.html 参照

パラオ独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌が作られました。
作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。
題は「ペ島の桜を讃える歌」です。
ペリリュー兵士とは「日本兵を意味」しています。
この歌は同時に作曲もされました。
作曲者はペリリュー島小学校副校長、ウィンティ氏。
彼らは今もこの歌を愛唱しているそうです

「ペリリュー島の桜を讃える歌」


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し


日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に



今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る 



平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る



どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる    



戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを


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別サイトにて、ご訪問者さまから、素敵なパラオでのご経験を教えていただきました。
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はじめまして。ニュースから辿ってこの日記を読みました。

私はパラオに以前住んでいた事があります。
こういった話は知っていましたが、今年3月に起きた震災時にパラオ国民が日本を想う気持ちを再確認しました。
震災から数日後(現地の日本人会すらまだ何もしていない頃)には日中30度以上ある暑い日差しの中、中学生から高校生くらいの子供たちが募金活動を行っていました。
車を運転する私が日本人だと分かると、車に寄ってきて「頑張って!」と声をかけて手を振ってくれました。
町の中、どこへ行っても募金活動をしておりパラオ人の友人に「みんなも生活があるのにどうしてこんなに募金できるの?」と尋ねると
「私達は釣りをすれば魚が食べられる。貧乏でも大丈夫!」と、決して豊かでない暮らしの方々も日本人の為に今でも想って下さっていました。

「貧乏でも大丈夫」心が豊かでないと言えないし実行できませんよね。

私はパラオで暮らし、日本人で良かったと思った事は本当に沢山ありました。

でも、本当の意味での歴史を知らない日本人が多すぎる…。

いつかこの恩は返していかなければならないと、私は心から思いました。

長文失礼しました。
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現在、日本では
自虐史観が与えられ
「日本は悪い国」であると教わります。

そう教わることで、
私達日本人に何かメリットはあるでしょうか?

私の答えは「否」


私達、日本人が
学校では教わらない日本の歴史
その中にこそ、
日本人が本来教わるべき事柄があります。

日本人はもっと誇りを持って生きていいと私は思います。

誇りを持つとは「偉ぶる」ことではなく、
「日本は素敵な国だ」と感じ生きることだと思います。

祖先達の素晴らしい行いを汚すことの無い様に生きることだと思います。



語り継がねば、消え去ってしまうであろう日本の歴史
伝えていきたいと思います。



「日本は悪い国」     自虐史観教育反対

「殺されても殺さない覚悟」憲法9条反対
戦争をしない為、抑止力としての武器、そして軍
(これを物騒だとし、手放してしまえば、逆に戦争を引き起こすと私は考えています。)



そして、


日本人が一生懸命繋いできた
ここ日本を壊し
他国に譲りわたす行為を行う
売国政党反対



日本は日本人の国です。



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