だけれども僕はやる。

~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。~


中田厚仁(なかたあつひと)氏
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平成5年4月8日 カンボジア
中田さんは至近距離で銃撃にあい、亡くなられました。

昭和43年の中田氏は、
生きていれば今年43歳になられます。

当時のカンボジアは、
20年もの長きにわたって内戦が続き、
全土に1千万発もの主に中国製の地雷が埋められていました。

当時の日本の宇野宗佑外務大臣の努力で、
カンボジアの停戦に関する国際会議が日本で開かれ、
カンボジアに停戦と和平、
そして国民の意思を尊重した総選挙が実施されることになったのが、
平成2(1990)年のことです。

平成4(1992)年、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)ができ、
20年続いた内戦に終止符が打たれ、
停戦合意が成立、
総選挙を実施する事になりました。

これは
カンボジアの人々が、
中国産の撃てば暴発し撃った本人が大けがをするという
中国製の機関銃やら地雷を使用し武力で国家を統一する方法を止め
民主的な公正な選挙によって、
平和な国家を取り戻す方法を選択したことを意味します。

さて、
選挙を実現する為に、
まず、地雷の撤去が必要となりました。
あちこちに地雷が埋められたままでは思うように人々が出歩けません。
そこで、戦後初めて、
自衛隊が海外派兵されることになりました。

なぜ自衛隊だったのか?
それは日本中に降り注いだ焼夷弾の不発弾処理で、
日本の自衛隊は当時世界で最も優れた爆弾処理技術を持っていたからです。



そしてもうひとつ。
カンボジア人に「選挙」とはどういうものでどこで行われるものかのかを「周知」する必要がありました。
あくまでも中立の立場で。

そこで、
国連のボランティア機構を通じ、
日本国内からも志願者を募り、
カンボジア国内で、「選挙の周知」をするスタッフを派遣しました。


その中の一人が、中田厚仁さんでした。

中田さんは、
大阪出身で、大阪大学法学部入学後国際法を専攻し、
卒業後、
カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平成4年に募集を開始した国際連合ボランティア(UNV)に採用されています。

彼は、平成4年7月にカンボジアへ渡ると、
最も危険なコンポトム州の巡回要員に、自ら志願しています。

当時のカンボジアには、まだ政府がない状態でした。
内戦に終止符が打たれたものの、
内乱グループは細かな派閥に分かれ武装解除に応じないグループもまだ数多く残っている状態でした。
なかでも中田さんが志願したコンポトム州というのは、
地雷の埋蔵量、武装ゲリラ数とも、最低最悪の状況にある州でした。

しかし、
カンボジアの人々の平和を心から願う中田さんは、
懸命に村々を回ります。

道すらない環境。
だから、
川にぶつかればフェリーを使い、
フェリーが行けなくなるとカヌーを使い、
カヌーが使えないところでは泥水のような濁った川を泳いで村々を回りました。
2時間以上も泳いで、ようやくたどり着いた村もあったそうです。

そこで彼は選挙の必要性などについて、必死に、真剣に説いて回りました。


平成5(1993)年4月8日。

中田さんのもとに、
国連ボランティアの人たちの安全を守るための会議に出席するようにと
連絡がはいります。
彼は、会議出席のために、車で移動を開始しました。

この際、中田さんの乗った車は、
中国共産党の影響を受けた「ポルポト派」の兵士に囲まれます。

中田さんは、後頭部に銃を突きつけられ、
左後頭部から左目にかけて貫通傷を負わされました。

瀕死の重傷の中で、
中田さんがボランティアの本部に向けて無線で伝えらた最後の言葉は、「I'm dying.(死んでいきます)」でした。



平成5(1993)年 5月23日

中田厚仁さんが亡くなった翌月の5月23日、
カンボジアで総選挙が行われました。


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この選挙の投票率。

90%



中田厚仁さんが担当していたコンポトム州の投票率

99.99%

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\



ボランティアチーム
そして
中田さんの思いは
結果となり、実りました。





生前、中田さんは次の言葉を残されています。

~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。~


ただまっすぐに。
ただ一所懸命に。

その思いは
その行動は
実を結んだのです。


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~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。~


ただまっすぐに。
ただ一所懸命に。

その思いは
その行動は
今もカンボジアの人々に歌われ。
今もカンボジアの人々の心に刻まれ。


カンボジア総選挙。
開票作業をしていた投票箱の中から、いくつも手紙が出てきました。
投票用紙に混じった手紙です。

本当は、
投票箱には投票用紙以外のものを入れることは禁止されています。
だからカンボジアの人々は、
選挙の立会人に見つからないように苦心して、手紙を入れました。

中田さんの死を悼み、
彼の温かい人柄を慕い、
彼の誠実な活動に感謝の気持ちを述べ、
中田さんの日本にいるご家族に感謝の思いを伝える為。

今まで民主主義とか人権とかいう言葉に触れることなく、
一生戦争のなかで、暮らさねばならないのか、と思っていたけれども、
こうやって
初めて自分たちの意思が表せる選挙ができ、こんな嬉しい事はない。
ありがとう。 (手紙の中の一枚)




中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地でした。
総選挙が終わり、
カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、
付近の村々から、たくさんの人が、この地に集まってきます。

平成7(1995)年、そこに新しい村ができました。
村の公式名は
「ナカタアツヒト・コミューン」です。
村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいます。

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アツ村の村歌をご紹介します。

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題名【アツヒト村の歴史】

♪新たに発展したアツヒトの村
 地方にある田舎の村である
 森の中に生まれた新しい村
 みんなの手によって作られた

♪93年の出来事を思い出せ
 地域一帯は地雷でおおわれていた
 旅人はとても恐れた
 そこには山賊もひそんでいた

♪4月8日のこと
 おば おじ 祖母 祖父はある事件のことを聞いた
 道の途中でいつも恐怖におびえていた
 銃撃(じゅうげき)の音を耳にして

♪その時アツヒトは殺された
 痛々しく苦しんでいた
 学校の前にあるクロラッニュの記の近くで
 その事件は歴史に刻まれた

♪彼は死んだが 
 彼の名前は生き続けている
 石碑に刻まれている
 学校の中庭にその石碑が置かれている
 クメール人に語り続けている

♪新しいコンクリートの家が作られた
 種々の樹木を植える
 カンボジアの発展のために
 それが彼の願いである

♪クメール人よ 記憶にとどめよ
 これは心の平和である
 彼に学び 従えよ
 わたしたちの幸福は彼の力によるのだ
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\




~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。~



当時、カンボジアへのPKOに参加した日本人は数多くいます。
自衛隊からは、総勢約1800人、
また文民警察として75人の警察官が派遣されました。
そのうちのひとり高田警視も命を落とされている。

自衛隊の伊丹のある部隊では、PKOへの志願が定員の30倍に
も達したといいます。

「日本の代表としてしっかり活躍したい。
同じアジアの国の発展に協力できる事がうれしい」(陸二曹28才)

「当初は両親にも反対されましたが、国際貢献のためだからと必死に説得した。」(陸三曹30才)

危険な地雷処理をしても、
その手当は1時間で缶ジュース1本分、
家族への電話代、1分千円前後の通話料も、自己負担だという。
そのような悪条件にもくじけず、
カンボジアに赴いた青年達の気持ちは、
中田厚仁さんと変わるところがないのではないでしょうか?




~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい~


中田さんには
生きて、カンボジアを見ていただきたかった。
これは私の正直な気持ちです。

しかし、それは適わなかった。

私のせめてもの思い

学校が教えない
中田さんの生き様を同じ日本人に伝えようと思う。

中田さんの生き様、
はたまた 
中田さんと同じようにカンボジアで一所懸命に働いた日本人から
学ぼうと思います。
恥じない生き方をしたいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=iA_V7eRXDRc&feature=player_embedded



カンボジア人に
選挙に行ってもらう為
地雷撤去や選挙についての周知活動を一所懸命に行った日本人。
思いは届き、結果となって表れた。

感動した!!!と涙は流せど、

日本国内で行われる選挙の投票率、高くても60㌫代。

「無関心」
「どうでもいいや」
「難しくてわからない」

恥じない生き方 をしたいものです。




カンボジアの平和を望み、その為の選挙を実現させる為
一所懸命に取り組んだ日本人に
感動した!!!と涙は流せど

日本人が選挙で実現させたのは
国政前提 <売国>の平和とは正反対の国、日本。

それでも
「無関心」
「どうでもいいや」
「難しくてわからない」

恥じない生き方 をしたいものです。



私は思うのです。

一人一人の行いは微力かもしれません。

しかし、
多くが
同じような思いを抱き、
行動した時、
ここ日本は大きく変わると思います。
明るい方向へ。



~だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい~





日本人の生き様を知り
そして
恥じない生き方を。




参考
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1139.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog032.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E5%8E%9A%E4%BB%81



こうした日記を書くと
必ずこういう意見を聞きます。

「外国の為に頑張るなら日本の為に頑張ってほしかった」

売国と 中田さんの生き様を一緒くたに考える人さえいます。

悲しいことです。

中田さんの残したもの
その中には
外国人の日本人への信頼や感謝も含まれます。
そうでなければ
村や歌なんて作られません。

日本人への信頼や感謝
それは日本にとって国益です。
恥じない生き方をしようと日本人が感じるならば
より一層の国益となります。

一緒くたに考える

日本の為に頑張ってほしかった とするならば
それはまだ貴方が「他人任せ」だということです。


だけれども、僕はやる

只今日本の国政 売国
未だに投票率は低い

だけれども、僕はやる

皆が同じ思いを少しずつ持ち「他人任せ」を止めた時
現状打破に繋がると私は思います。
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