「帰ろう。帰ればまた来られるからな」~キスカ島の奇跡を起こした心優しき中将

「うっちゃあ、いかんぞーー!!!」

船に鳴り響いた怒声。
驚き、振り向いた先にいたのは、、、、、、。


1942年3月、バタビア沖海戦で日本艦隊は連合軍艦隊に圧勝。
その時、
重巡洋艦「鈴谷」の砲撃で撃沈した敵艦から、
敵乗員が脱出しようとしていました。
鈴谷の機関銃指揮官が、逃げる敵乗員に射撃を命じようとしたその時、
撃ってはならぬと怒声が響き渡りました。

驚いた機関銃指揮官が振り向くと、
そこには、
艦橋から身を乗り出し、
逃げる敵乗員への射撃を制止している
鈴谷艦長、木村昌福中将の姿がありました。


木村昌福
20141226172937 (2)

明治24年静岡に生まれる。
海軍兵学校第41期入校を果たすが、卒業時の成績は118名中107番と振るわず、
兵学校の卒業順位がその後の将来を左右するといわれていた海軍で、
卒業後も注目を集める存在ではありませんでした。
スタート段階から海軍のエリートコースから程遠く、
同期の上位組がどんどんと海外留学へ行く中、
木村大尉は、少佐に進級後、晴れて駆逐艦の艦長に任命されます。
いわゆる「車引き」と呼ばれる駆逐艦勤務を続ける中で、
「海の男」「船乗り」としてのセンスやルール、リーダーシップを身につけていきます。
木村少佐は同期から2年遅れて中佐に進級。
駆逐艦艦長や駆逐隊指令を務め、大佐に進級した頃は「水雷屋でヒゲの木村を知らんヤツはモグリだ」と言われる程になります。

昭和15年に重巡洋艦「鈴谷」の艦長となった矢先、
大東亜戦争勃発。
木村中将の指揮する「鈴谷」は東南アジア方面の主力艦として活躍することになりました。
中将はいわゆる「士心を得る」将として部下からの信頼の厚い人でした。
冒頭でご紹介したエピソードも中将の人柄を表すひとつです。

木村中将の人柄を表すエピソードはその他にもあります。

1943年のビスマルク海海戦では、日本輸送部隊が敵航空隊の空襲を受けて全滅。
護衛艦隊を指揮していた木村中将も重傷を負うという事態になりましたが、
信号員が「指揮官重傷」の旗を挙げたと聞いた中将は、
「なにをやっている! 陸兵さんが心配するではないか!」と怒鳴りつけて
「只今の信号は誤りなり」と訂正させ、
最後まで残存艦艇の指揮を取り続けました。

そして、この後
木村中将の名が後世に伝わる決定打となる出来事が起こります。

1943年7月に実行されたキスカ島撤退作戦です。

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1943年、ミッドウェー海戦の陽動作戦として実施されたアッツ島攻略作戦によって、
アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島が日本軍の支配下に置かれましたが、
アメリカ軍の本格反攻によりアッツ島が陥落すると、
キスカ島守備隊約6000人が完全に孤立しました。

同年6月、キスカ島撤退を目的とした「ケ号作戦」を発動されました。

守備隊救助のために潜水艦10数隻が派遣されるも、アメリカ軍の哨戒網にかかって3隻が撃沈され、作戦は中止となりました。
この第一次作戦で救出されたのは、
傷病兵を中心とした約870人であり、
島にはまだ多くの兵士が取り残されていたのです。

失敗を挽回するべく、今度は駆逐艦を用いた第二次作戦が計画されました。

この作戦を任されたのが、木村昌福中将が司令官を務める第一水雷戦隊でした。

まず中将は、敵がすでにキスカ島を包囲しておりすぐに敵の攻撃機が飛んでくる間合いにあることを知り、
この地域特有の濃霧に紛れて素早く決行するしかないと決めました。

更に、作戦完遂には、最新鋭のレーダーを持つ船が必要だと上申し、
最新鋭の高速駆逐艦「島風」を配備してもらい、
また、霧の中でアメリカの艦と誤認させることを狙って、
一水戦旗艦の軽巡「阿武隈」の煙突1本を塗りつぶしたり、駆逐艦「響」には偽装の煙突を付けたりと工作もして、
作戦に取り掛かかりました。

しかし、作戦決行日の7月12日。
運悪く霧が晴れてしまいます。

海上で作戦決行日を3日過ぎるまで粘りました、とうとう霧は出ず、
最終的に木村は、一旦帰島を決断します。

このとき中将は、キスカ島へ突入を主張する部下に向かってこう告げます。
「帰ろう。帰れば、また来られるからな」

中将は、直属の上官や参謀のみならず連合艦隊司令部や大本営からも激しい批難を浴びましたが、
一見飄々とそれを受け流しつつ、
じっと機をうかがっていました。

そして、
再び濃霧発生の予報を受けて、再度出撃。

7月29日。

濃霧の中、部隊はキスカ島に一気に接近。
途中で旗艦の軽巡「阿武隈」と駆逐艦「島風」が敵艦だと勘違いをし魚雷を打ってしまうほどに霧が深い状態でした。

しかし、その霧が、部隊が島にたどり着いた一瞬だけなぜかきれいに晴れたのです。
この機を逃さす訳にはいきませんでした。

7月31日。

艦隊の帰りを心待ちにしていた基地の将兵たちは、
木村中将から送られてきた速報に喝采を上げることになります。

「全員収容帰投中。異常なし」
キスカ守備隊の生存者は守備隊約5200人中約5180人。

当初は6割を救出できれば良いほうだと予想されていたにもかかわらず、
蓋を開けてみたら、
残存兵のほぼ全員が生還する結果となったキスカからの撤退は、完全なる大成功に終わりました。

木村中将の、仲間救出にかける想いと、
慎重かつ大胆な判断が
「また来られる」を実現し、作戦を大成功に導いたのです。

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キスカ撤退作戦後、
実はもうひとつ、
木村中将の人柄あふれる出来事が
起こるです。


1944年、日本軍はアメリカ軍に次々と打ち破られ、
同年10月、日本軍はフィリピン諸島に押し寄せたアメリカ機動部隊を撃滅すべく、「捷一号作戦」を発動。

しかし、正規空母17隻を主力とする敵艦隊の前に日本軍は大敗し、
残存艦艇の大半を喪失するという結果に終わってしまいました(レイテ沖突入)。

制海権と制空権(航空優勢)を奪われ、フィリピン占領が目前に迫った中、
海軍は同年12月に起死回生の反抗作戦を発動。
これが「礼号作戦」です。

作戦の内容は、ミンドロ島に上陸したアメリカ軍に向けて艦隊を突入させ、
輸送船を可能な限り撃沈するという、捷一号作戦で失敗に終わったレイテ沖突入を小規模化したものでした。
この作戦の指揮官として選ばれたのが、木村中将でした。

12月24日、重巡「足柄」、軽巡「大淀」、駆逐艦6隻という小規模な艦隊を率いてインドシナを出港。
2日後には空襲を受けて駆逐艦「清霜」が沈没、他にも巡洋艦2隻が被害を受けたものの、
木村は駆逐艦「霞」を旗艦としていたために難を逃れ、その日のうちに艦隊を作戦領域に到達させることに成功しました。

艦隊はミンドロ島沖のマンダリン湾に突入。
作戦は無事成功。
木村中将は、全艦艇に攻撃中止を命令し、海域からの撤退を始めました。

ところが中将は、ここで思いもよらない行動に出たのです。
なんと霞の機関を停止させて敵の勢力下に留まったのです。

それはなぜか?
作戦初期に撃沈された清霜乗員の救助の為でした。
 
当然アメリカ軍はこの機会を見逃さず、魚雷艇による攻撃を仕掛けてきましたが、
木村中将の心意気に胸を打たれた足柄、大淀、そして駆逐艦「朝霜」が
命令を無視して救援に駆けつけ、
魚雷艇を追い払いつつ自らも救助活動を支援。

乗員約260名の救助を成功させて、
無事脱出することに成功したのです。

またしても、中将の人柄が
仲間救助という結果を残したのです。

終戦後、
海軍解体直前に海軍中将に昇進した木村提督のその後は?


退役後、木村中将は山口県に製塩工場を起こし、
そこで、
かつての部下達といっしょに働いたそうです。

家族は新聞記者がキスカ島撤収作戦の取材に来るまで、
中将の海軍時代の経歴を全く知らなかったそうです。

仁義を重んじ、
名声よりも実績を第一としていた木村昌福中将らしい余生でした。


参照
http://d.hatena.ne.jp/wrx-sti/20141226/1419592216
http://takeo896.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B8%B0%E3%82%8D%E3%81%86%E3%80%81%E5%B8%B0%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%BE%E3%81%9F%E6%9D%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%82%89


そんなに遠くない昔、
日本を繋ぐために戦った先人たちがいます。

繋ぎ繋がり今がある。

生き様から学び、恥じないように生きる

そんなきっかけになりますように。

学校が教えてくれない、
日本人の知らない日本人の先人たちの生きざまを
どうか外へ外へ伝えてください。


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