日本で初めてベートーベンの第九が演奏されたのは、収容所だった

嬉しいニュースがありました。
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「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120330-00000084-san-soci
日本が対米戦争に踏み切った理由について、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが1951(昭和26)年、「主に自衛(安全保障)のためだった」と述べた米議会での証言が、東京都立高校独自の地理歴史教材の平成24年度版に新たに掲載される。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、裁判の実質責任者だったマッカーサー自身が否定したものとして知られる同証言を、公教育の教材が取り上げるのは初めて。
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この調子で、自虐史観教育が終焉を迎える事を
私は心から願います。


さて、日記に移りたいと思います。


皆さん、
徳島県に「第九の里」という道の駅があるのをご存知ですか?

なぜ、ここが第九の里と呼ばれるのか?
以下にご紹介致します。


第一次世界大戦に参戦した日本は、
ドイツの租借地であった青島を攻撃し、
約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送りました。
このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。
ちなみに、
俘虜とは敵兵を幽閉、拘禁して収容所にいれておいた状態をいいます。


では、
坂東俘虜収容所に送られたドイツ兵達は、
その後どんな生活を送ったのでしょうか?

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当時、坂東俘虜収容所の正門前には、
約80件もの俘虜たちが経営する店が並びました。
仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店・・・

また、捕虜収容所の前の土地7000坪を借り上げて運動場を作り、
捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。
空き地には鶏舎や菜園が作られ、
ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。
収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。


ここまで書いて
想像と違うなあと思われた方、いらっしゃるのではないでしょうか?

以下の規定をご存知でしょうか?
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1899年の国際条約「ハーグ規定」
ドイツ俘虜たちの立場はこれにより規定されていました。
同協定は例えば、労働について
「国家は将校以外の俘虜にその階級や技能に応じた労働につかせることが
できるが、その労働は激しいものであってはならない」
などとしています。
日本はこの規定を忠実に守り
ロシアに囚われたシベリアのドイツ俘虜は手紙に
「俘虜が日本軍に収容されたときは、わが同胞たちは救いと考えた」と
書いているほどです。
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その中でも
坂東俘虜収容所は、俘虜たちから模範収容所と呼ばれていました。
一定の秩序の下、上記にご紹介したように
生産労働はもとより、文化活動、社会事業、地域との交流なども許されて
いたからです。

俘虜たちの外出は引受人さえいれば比較的自由で、
地元民はドイツの農業技術や洋酒製造、標本作成、植物採集、気象観測、設計建築、石鹸の作り方、染色などを学び、
ドイツ兵捕虜は日本の養蚕や稲作、藍作や焼き物などを学びます。

建築も行いました。
ドイツ橋と呼ばれる石橋が今も尚残っています。

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地元の青年たちが西洋音楽を習いたいという願いを聞いた松江大佐はエンゲル・オーケストラのリーダー、パウル・エンゲルを紹介し、音楽教室を開きます。
そして、楽器を演奏できる俘虜達によるオーケストラ「ヘルマン・ハイゼン楽団」がつくられ、
日本で初めてベートーベンの交響曲第九番が演奏されました。

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だから坂東収容所がある徳島に、「第9の里」と呼ばれる道の駅があるのですね。





板東俘虜収容所所長 松江豊寿大佐
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松江大佐は
ドイツ捕虜全員を集めた際に以下のように訓示したそうです。

「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、
最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。
私は諸君の立場に同情を禁じえない。
諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」


そしてもうひとつ
大佐の口癖がありました。

「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」



以上よりわかることがあります。

松江大佐が
ハーグ規定を遵守していたこと、
そして
その精神を収容所管理の姿勢・方針に生かし

加えて
「武士の情け」
「敗者に対するいたわり・優しさ、果敢に正々堂々と戦った勇者に対する敬意の念」
をやはり収容所の姿勢・方針に生かされていた事です。






やがて停戦協定が結ばれ
俘虜達は日本を去ることになります。

松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、
通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、
あなたに示された精神で挑むことでしょう。
『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、
私たちはあなたとともに思い出すでしょう」


ここで欧米列強がアジアを侵略し、
ロシアが日本を虎視眈々と狙っている頃に
明治天皇がお詠みになられた御製をご紹介致します。
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四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に
など波風の 立ちさわぐらん
明治天皇

四方の海はみな同胞と思うこの世になぜ波風が立ち、
騒ぎが起こるのであろう。
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>『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、
>私たちはあなたとともに思い出すでしょう


日本人の心根が、
ハーグ規定と武士の情けの精神に基づいた収容所の対応や
地元民との交流により
ドイツの方々に伝わり繋がったのでしょう。




そしてもうひとつ
ご紹介したいお話があります。

板東俘虜収容所の跡地は現在「ドイツ村公園」になっていますが、
その右奥に2つの慰霊碑が建っています。
古い方は帰国を前にドイツ兵が作ったもので、1919年8月に完成しています。
右側の新しい方は全国の収容所で亡くなった87名の合同慰霊碑で、1976(昭和51)年に建てられています。

「ドイツ兵の墓」とも呼ばれてきた古い慰霊碑には、
板東ゆかりの11名の名が刻まれています。
このうち2名は松山と丸亀で亡くなった人で、
2名は徳島の陸軍病院で亡くなっています。
これらの4名のお墓はそれぞれの土地に作られておりますので、
もちろん板東の慰霊碑にはその人たちの遺骨はありません。
あとの9名につきましても戦友によって故郷に持ち帰られたものもあると思われ、墓というより慰霊碑と呼ぶ方が正しいのでしょう。

この慰霊碑が注目されるようになったのは、
第二次大戦後元兵舎に海外からの引揚者が住むようになってからでした。

そこに住んでいた高橋春枝さんが草に埋もれたこの碑に気づき、
人々の協力も得て13年にわたって清掃と献花を続けました。

このことが新聞で紹介され、
ドイツ大使や総領事がお礼に訪れたのをきっかけに、
この慰霊碑には日独交流の象徴とされたくさんの人々が集うようになりました。

高橋春枝さんは、1964年
ドイツ功労勲章を贈られました。

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~~~さいごに

1945年、日本は敗戦国となりました。
その後、
日本の歴史は
「日本は悪かった!!!!!!!!!!」と
他国に都合のいい歴史である自虐史観に書き換えられました。

他国に都合のいい自虐史観は
それを信じた日本人から日本人としての誇りを奪い
また、
「反日国による捏造の歴史の提示による謝罪要求」と
「謝罪要求に対する無意味な土下座と支払い繰り返し」という
「捏造が作った他国に都合のいい従属関係」を生み
結果として、生まれているのは
「憎悪」ではないでしょうか?


自虐史観とは逆に
パラオやトルコはじめ様々な国が語り継いでくれている
日本人の先人たちのの生き様(国史)は教科書には掲載されません。


今回とりあげた坂東収容所のお話もそのひとつです。


生き様を知るからこその行い
生き様を知るからこその誇り
生き様を知るからこその恥じない生き方があると
私は思います。



俘虜と俘虜を管理する立場という関係にあったドイツと日本
それにより生まれたものは何でしょうか?

こびへつらうでも
威張り散らすでもなく
ハーグ規定と武士の情けの精神に基づいた対応をし

外国人の碑を壊すのではなく、汚すのではなく、さげすむのではなく
清掃と献花を続け


結果として、生まれたもの、、、、、、、、、


後に祖国に帰った俘虜たちは
坂東収容所での生活を懐かしみ
ドイツ各地で
「バンドー会」を結成しました。

また坂東収容所跡地には
「ドイツ村公園」が建設され、
徳島県鳴門市とドイツのリューネブルク市は姉妹都市となっています。


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ドイツ人俘虜からの手紙
http://www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo55.htmlより

ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
「私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。…私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。」

エドアルド・ライポルト(コーブルグ市在住)
「懐かしきバンドウの皆さま。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。
バンドウラーゲルの5ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色褪せることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あのころの仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれる33名は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、遥かな御地へ熱い思いを馳せているのです。…目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などが瞼に浮かんできます。…」
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先人たちの生き様が生んだ  信頼  友好 
先人たちの生き様が伝え繋がっているからこそ今も続く 信頼 友好
先人たちが私たちに残した大切な貯金


生き様を知るからこそ生まれる行い

生き様を知るからこそ生まれる誇り

生き様を知るからこその恥じない生き方




参考文献
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/52essays/horyo.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23359709.html
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/ruhe/no_6/ruhe6.htm
教科書が教えない日本の歴史

■道の駅 「第九の里」
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/michino_eki/germany/index.html
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捏造が作った都合のいい従属関係・・・

☆他国に都合のいい自虐史観は それを信じた日本人から日本人と しての誇りを奪い また、 「反日国 による捏造の歴史の提示による謝 罪要求」と 「謝罪要求に対する無 意味な土下
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